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初老の声

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7月7日の夜(盧溝橋事件)


                       19.7.7

 日本と中国との全面戦争の口火になった盧溝橋事件は、今から70年前の1937年7月7日に起こった。

小学3年のとき担任の先生が、七夕の夜が宿直なので七夕飾りを作るから希望者は学校へ来なさいと呼びかけて、星が出始めた夕方に多くの生徒が高台にある小学校の宿直室の庭に集まった。みんなで短冊に何かを書いたりして竹の枝につり下げた。七夕の歌を歌ったかもしれない。先生が星の話をして、見上げる星の群れが空から下りてくるような夢のひとときだった。
七夕飾りを持ってみんなで学校の坂道を下りて、学校の下を流れる川の中へそれを投げ込んで、七夕飾りは流れて行き、そこで解散した。七夕飾りが庭で風に揺れて、星が空から降ってくるような、幻想的な七夕の夜だった。

 盧溝橋事件があった夜も、中国の首都北平の空には星が輝いていたそうである。

 盧溝橋事件は、北平(当時の首都、後の北京)の郊外で日本の支那駐屯軍と中国軍との間に起こった衝突であるが、きっかけとなった最初の銃撃事件そのものは突発的なもので、日中双方ともに計画的なものではなかったというのが定まった見方である。
ただ、この事件が発生する頃の現地とその周辺には不穏な空気が流れ、一触即発の状態だったともいわれている。
その様子と事件そのもの、そしてその後の展開について概観してみたい。

(1)支那駐屯軍の誕生と増強

 支那駐屯軍とは、1900年に義和団の乱を鎮圧するために出兵した日本を含む列強各国と清国との間で翌年に締結された条約(北支事変最終議定書)により、北平と天津地区に無期限の軍隊駐屯を認めさせたことからスタートしたもので、日本軍は約2000名前後が駐屯していた。

支那駐屯軍は、1904年の日露戦争により手に入れた南満州鉄道を守備するために設置された関東軍とは別の軍隊である。

( 関東軍は、満州の軍閥張作霖を爆殺し、満州鉄道を爆破して中国側の犯行に見せかけた柳条湖事件を起こし、また傀儡国家満州帝国の樹立を行なった政治的な軍隊である。
関東軍は満州帝国樹立に続いて、強大な軍事力により恫喝しながら華北の支配を進めて行き、最大で70万人余に達した。中国が真に脅威を抱いたのはこの関東軍であった。)


 外国軍隊の首都周辺駐兵は、中国にとって屈辱的だったので、中国はベルサイユ会議やワシントン会議で各国駐屯軍の撤退を要望し、一時は支持決議もあったがそのままになったそうである。
(なお他の国は、やがて駐兵権を放棄したり駐屯軍が残っていても儀礼的な存在になり、日本軍だけが実戦部隊に近い性格を保持したようである。)

 日本の駐屯軍は1936年4月に増強されて5600名程度になった。
増強の理由は、「抗日団体、共産軍の脅威」「増加した居留民の保護」であった。
その増強について、日本側は中国との協議不要と解釈していたが、中国は外交ルートで抗議し中国各地で増兵反対のデモなどがあったそうである。

(2)豊台駐屯軍と軍事演習

 増強された駐屯軍は北平・天津の各地に分散配置され、そのうち北平郊外の豊台に配備された歩兵第1連隊第3大隊(約600名)が、この事件の当事者となる。
条約では各国の軍が駐屯できる地点を12箇所定めており、豊台はその中には入っていなかった。

 日本軍が1936年6月に駐屯を始めた場所から300メートルの距離には中国第29軍の兵舎があったため、両者の間ですぐ6月に小競り合いが生じた。
また9月には路上で両軍のもめごとが発生し、日本軍の応援部隊も駆けつけて日中両軍がにらみ合い、緊迫した空気の中で交渉が行なわれた結果、中国軍が豊台から撤退することとなったそうである。

 また、豊台駐屯軍は演習地として、兵舎から6km西の宛平県城北側の荒地(ともう1箇所)を確保した。
(宛平県城のすぐ西には川があり、そこにかかる橋が盧溝橋であるが、その橋を含めて宛平県城、演習地などの一帯を広い意味で盧溝橋と呼んでいた。)
この荒地は演習場としての歴史が古い場所ではあったが、宛平県城には中国第12軍第37師団の大隊が常駐しており、その場所での頻繁な演習が盧溝橋事件の遠因になったと指摘されている。特に1937年になって空包射撃を伴う夜間演習が多くなり、中国側から夜間演習の事前通告要求も出されていたようである。

 演習の場所・時間には制約が無く実弾を使用しない演習は通告不要という条約解釈が定着していたようであるが、宛平県城に常駐する中国軍の至近距離での頻繁な空包による夜間演習が、中国軍を相当緊張させていたたようである.
花火工場の中で毎晩焚き火をしているようなものだったのだろう。

 既に中国北部(華北)の各地で小紛争が続発し、中国軍内部では『日本軍は演習にかこつけて近く攻撃を開始する恐れがあるので日夜警戒を厳重にせよ』という指示文書が出され、日中両軍の衝突を予告するような流言も多く飛び交うなど険悪な空気が漂っている中でのことであったので、まさにわずかな火種でも発火するような状況であったといわれている。

(3)盧溝橋事件

①演習部隊への銃撃

 第3大隊第8中隊の約130人は、夜明けまでの夜間演習のため豊台を夕方出発し演習地につくと、1km程度離れた堤防上で中国兵200人程度がシャツ姿で防備強化の工事をしていた。
演習予定時刻になっても中国兵の工事が続いていたので、中隊長は予定地点を少しずらせて(堤防から少し距離をとって)19時30分ごろ演習を開始した。
仮設敵を前方数百mに配置し、それに向かって(堤防を背にして)攻撃部隊が隠密行動をしながら接近していく訓練であり、事件が起きるまで現場は静寂だったようである。

 前半の演習が22時30分ごろ終了、中隊長が伝令に集合命令を伝達させて、立って集合状況を見ていると、突然仮設敵(中国軍の方を向いている)の軽機関銃が空包射撃を始めた。中隊長は「集合命令の伝令が来るのを見て仮設攻撃部隊の接近と勘違いしたのだろう」と書いている。

 その直後、中国軍の堤防陣地の方から数発の実弾射撃を受けた。
そのため中隊長は直ちに集合ラッパを吹かせたところ(仮設敵は気づかず空包射撃を続けていた)、また実弾が十数発飛んできた。
中隊長は射撃が止んだ後人員点検をしたが、負傷者はいなかった。

 この一連の動きについての一般的な推測は、緊張状態にあった中国兵の一部が、まず軽機関銃の空包射撃の閃光と射撃音を実弾射撃と勘違いし、続いて集合ラッパを攻撃の合図と勘違いして(空包射撃の継続もあったので)反射的に銃を発射したのだろう、ということである。
双方とも組織的な交戦意思がなかったため、その場はそれ以上発展しなかった。

 中隊長がその後別の位置に中隊を集結させたところ、一人が行方不明であることが判明し、捜索を始めるとともに豊台にいる大隊長に事態を報告した。
7月8日の午前零時ごろ大隊長から連隊長に報告され、幹部将校や兵営の兵隊に非常招集がかかった。

 豊台の大隊や北平の連隊などでは、実弾射撃を受けた事とともに中国軍に日本兵が拉致されたらしい事が重大視された。
行方不明の兵隊はやがて戻り、訓練報告に行く途上道に迷ったことがわかったが、豊台にはその報告が届いていなかった。

②連隊長、大隊長の判断

 大隊長は、その後大隊を出動させて現地に行き、中隊長から行方不明者の帰隊を聞いたがそのまま現地に留まった。
一方、連隊長は、中国の要人宅や各地の中国軍兵舎を偵察させたが何の動きも無かったので、本件は中国側の計画的行動ではなく局所突発事件と判断した。
また、日本の特務機関にも連絡されており、特務機関と中国側の行政組織との間で事態収拾策についての協議があり、その結果日中合同の調査団が4時前後に現地へ出発した。その時には既に行方不明者の帰隊の件は伝わっていたので、実弾射撃の有無、責任追及が主題であった。

 連隊長は、調査団が出発する際、調査団に加わる副連隊長が基本方針について質問したのに対して『あくまで交渉により解決する』と答えている。
しかし、調査団が出発した直後に、現地の大隊長から「3時25分に現地で3発の銃声があったので、再度の発砲は敵対行為と認められるが、いかにしましょうか』と電話が入った。
大隊長は現地で銃声を聞いたので大隊を攻撃態勢につかせた後に通信所に行き連隊長に電話をしたわけであるが、それに対して連隊長が『支那軍全体の動きはなく、現地だけのことだから安心だ』と言うと、勢い込んで『それならこの際盧溝橋の支那軍を叩いた方が良いと思います』と進言した。
それに対して連隊長は『やってよろしい』と答えた。 
なお、大隊長が聞いた三発の銃声は、日本軍の伝令が道をあやまって中国軍陣地に近づきすぎたために射撃されたものとのことである。(伝令に出た曹長の話)
 以上は連隊長、大隊長の回想からである。
「好戦的で大局観に欠けたこの連隊長と大隊長の二人の浅慮の組み合わせが戦争を発火させた」という批評があるが、はたしてどうだろうか。

 その国の政府に反対されても駐兵権を主張して軍隊を増強し、その国の軍隊の近くで演習を続け,北の方では関東軍がその国の領土を削り取りながら徐々に勢力を広げ、その国の国民からも激しい抗議・反発を受け続けていたのだから、早晩日中両軍は衝突したのではないだろうか。

③両軍の衝突

 大隊長は連隊長から攻撃許可をもらうと通信所から部隊のところへ戻り、各中隊を展開させてまさに宛平県城外の中国軍を攻撃しようとしたところへ調査団の一行が到着した。
大隊長は調査団の中の副連隊長に制止されたので、やむを得ず攻撃開始を止め、兵隊に朝食を命じた。
しかし、最も先端に進んでいた部隊と中国軍のトーチカとの間が至近距離となったため、やがて撃ち合いが始まり、5時30分ごろ大隊長は総攻撃を命じた。

 一方、城外で戦闘が始まった時、調査団は宛平県城に入り交渉を始めていた。
「中国兵が撃った」「撃たない」と押し問答があった後、今後の交渉態勢について議論している時に城外の銃砲声が聞こえ、砲弾が数発城内にも飛んできた。

 こうして始まった戦いは盧溝橋を渡って西岸に達していたが、激戦は2時間ほどでおさまり、その後は散発的なものになった。
7月9日には停戦協議が始まり、「日本軍は川の東岸へ中国軍は西岸へ引き下がる」という日本側の提案に、中国側が宛平県城の明け渡しを意味するために難色を示すという状況であったが、その後も両軍の小さな衝突は止まず紆余曲折を経て7月11日に停戦協定の調印となった。日本側の主張を中国側がほぼ認めた内容だった。
(関東軍が7月9日以降着々と軍を南下させて来ていたので、中国軍にとって関東軍の動きが脅威だったのだろうといわれている。)


 事の発端は、日本軍が行なっていた中国軍に近距離な場所での夜間演習が中国兵を緊張させ、それが勘違いによる発砲を招いたものだと思われるが、その後の日本軍の対応はかなり意図的で危険なものをはらんでいたと思われる。

 この事件の経緯については、事件の当事者(最初の発砲があったときの中隊長、7時間後に攻撃を命じた連隊長、命令を受け戦闘を開始した大隊長)が直接語っているので、かなり正確に再現されている。
それでも、「中国軍が意図的に挑発を続けたものであり、日本軍は忍耐の限度に達して反撃したものである」とか「中国共産党の演出であった」いう主張をする論者もいるそうである。



(4)派兵決定と全面戦争開始

 偶発的な事件に端を発した日中両軍の衝突は、数日後に停戦協定の締結により停戦したが、それは表面的なものに過ぎなかった。

 陸軍中央部では、盧溝橋事件について対支強硬論と不拡大論(対ソ戦重視)との対立があったが強硬論が大勢を占め、現地での停戦協定の成り行きと関係なく7月10日に大規模派兵を決定した。
 その翌日の臨時閣議で陸軍大臣から『内地から三個師団、関東軍から二個師団、朝鮮軍から一個師団の北支派遣』が提案され決定された。
(途上で外務大臣が「現地の成り行きを確かめるまで審議を延期した方がよい」と発言した。閣議決定の数時間後に停戦協定が調印される。)

 この派兵決定は、盧溝橋事件という局地紛争が、日中全面戦争に発展する転機となった。
閣議の後、政府声明を発表し『中国は中央軍に出動を命じるなど武力的準備を進め平和的交渉に応じる誠意無く遂に交渉を拒否した。今回の事件は支那側の計画的武力行使であることは疑いの余地がない。そのため、謝罪と保障を求めて北支派兵を決定した』と述べた。
(派兵決定を知った中国政府関係者は『停戦協定は作戦準備完了までの時間稼ぎに過ぎない』と怒ったとのことである。)

 政府声明の後、首相官邸に言論機関、両院、財界の代表を集めて首相から挙国一致の協力を要請し全面的な賛意を得ている。
深夜には、民政党、政友会が『政府を支援する』という声明を出した。
翌日のある新聞には、第一面に派兵決定の記事、第2面に停戦協定の記事とあわせて「協定をしても支那側がいつ破るかもしれない」という当局談話が掲載されたそうである。
こうして政府により鳴り物入りで戦争気分が盛り上げられ、国民の戦争熱は徐々に高まっていったようである。
(中国側も臨戦態勢を整えていき、8月15日には全国総動員令を出している。)

 7月27日から、北平・天津を総攻撃し占領したことを手始めとして日本軍の本格攻撃が開始され、以後8年に及ぶ日中全面戦争が幕を開けたわけである。

 (参考)
 陸軍参謀本部が作成した昭和12年度(1937年度)陸軍作戦計画要領と題する訓令には「支 那駐屯軍は作戦初期に天津および北平、張河口できれば済南などの諸要地を確保し---」 と なっていた。これは仮定の計画であるが実際と状況・推移は類似しているとのことである。
 また、昭和12年度陸軍作戦計画では、対中国作戦の兵力について、前年度までは9個師団 となっていたが、一挙に14個師団へ増加している。

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 1944年7月7日には、サイパン島の守備隊が玉砕し、多くの民間人が自決した。
サイパン島陥落の責任をとって数日後に東条内閣が総辞職した。
サイパンなどのマリアナ諸島をアメリカ軍が日本本土爆撃の拠点として確保し、日本の戦争態勢の崩壊が決定的となったのである。
そのサイパン島などから爆撃機が日本本土に襲来し、1945年3月東京では10万人が死ぬ大惨事となった。
それでも政府は戦争を止めず、沖縄で多くの人が死に、その年の七夕も過ぎ、8月に二度の原爆投下による悲劇があり、多くの都市が灰になってからようやく政府は戦争を止めた。

 今日の夜は曇りか雨かもしれないが、心の中の七夕飾りには『日本が戦争の方に進まないように』という願いでも書いておこう。                       おわり

# by oranu-tann | 2007-07-07 13:20 | 盧溝橋事件

アメリカ議会での慰安婦問題議決を考える



従軍慰安婦の問題については、『従軍慰安婦についての下村発言について』でその本質と思われることを書いたが、米議会での議決を目前にしてあらためて感想を書いてみた。

 アメリカ下院議院で、日本の従軍慰安婦問題を非難する決議案が6月中にも可決されるとのことである。
これまでにも10年ほど前から同様の決議案が8回出されたが、日本のロビー活動などにより廃案にされてきたそうである。
今回も安倍首相の訪米により一度沈静化したが、今月に日本の政治家などによる連名の意見広告が米紙に出て、日本軍の関与を否定する主張をしたため、「安倍首相を頂点とする日本の政治家の本心が露呈した」と認識され、決議案が再燃したとのことである。
 
被害国である朝鮮や中国などのアジア諸国ではなく、米議会でも問題視され議決されるということは大変意味が大きいと思う。いわば第三国としての明確な見解が表明されるということであり、また日本を同盟国としている国からさえも日本の為政者の姿勢が批判されるということである。
それは単に従軍慰安婦に対する姿勢ということではなく、日本が難民受け入れが極端に少ないとか代用監獄を改めないなどの人権問題全般に対する為政者の姿勢に対するものではないかと思う。

 なかでも、戦前の日本の行為に対する日本の為政者の認識、具体的に言えば戦前の日本(軍)の非人道的行為などを今頃になって否定したりあるいは不明確であるとする安倍首相のの際立った姿勢に対して、レッドカードを出して、その右傾化に警鐘をならしているような気がする。
 安倍首相のことは、『憲法記念日に』など他のところで色々書いたのでここでは省略する。

ここでは、意見広告を出した政治家たちの感覚にもかなり疑問があるので、そのことを書いてみた。
意見広告が議決防止に対して逆効果になるということを考えなかったのかということもあるが、もっと根本的に『戦前の日本(軍)は醜いことや人道に反することはしていない』と積極的に主張している点である。断定できる証拠が無い以上はなかったことであるというその主張には信仰に近いものを感じる。逆効果は承知の上だったのかもしれない。
朝鮮で違法な方法で慰安婦を集めていた業者を日本警察が取り締まった、という報道があったことなどを根拠にして日本軍の関与を否定しているようであるが、この人たちは慰安所の設置・運営と慰安婦の徴集・管理に日本(軍)が積極的に関与していたこと自体を否定しているのだろうか。
1937年末に日本軍が、上海・南京戦における兵隊の婦女暴行の多発に対する防止策として、軍管理による慰安所の設置と慰安婦の徴集を決定したのであり、日露戦争のころから中国にあった自由営業の売春宿とは全く異なるものである。

それとも、そのことは認めるが、強制的な慰安婦徴集に日本(軍)は関与しなかったと主張しているのだろうか。
もし前者の主張であれば、まぎれもない事実をあえて否定するものであり論外であるが、後者についても、大変問題のある認識であると思う。慰安所・慰安婦の非人道性に対する意識が欠如しているのである。

従軍慰安婦の問題は、強制的であったか否かということが第一の問題ではなく、問題の核心は非人道的で醜悪な『慰安所・慰安婦』という仕組みを日本軍が積極的に計画・実行・管理したということである。

意見広告を出した人たちは、そのことに対してどのような認識を持っているのだろうか。
「強制的な慰安婦徴集に日本(軍)は関与しなかった」というようなことをわざわざ胸を張って言うという感覚がまず理解できないのである。
『慰安所や慰安婦自体は業者の営業の問題であり、また業者が慰安婦を強制的に集めていたとしても日本軍は関与していないし、むしろ警察がそれを取り締まっていた。だから問題はなかった。』と思っているようである。
議案の関係者は、意見広告を出した人たちを日本の為政者の代弁であると見て、彼らが人権意識の無さを表面に出しながら「米議会が日本の戦前の正しい行動を理解せず批判することは間違っている」と開き直っている姿勢に危険なものを感じたのではないかと思う。

その次の問題として、強制的な慰安婦の徴集はあったのか、日本軍はそれに関与したのかということである。あわせて、強制ということの意味、範囲の問題である。

日本軍は慰安所の慰安婦を大量に徴集するため多くの業者を選定し委託しているが、期限と徴集必要数を業者に指示し、徴集方法は任せるということだったろうと思われる。日本軍が強制的な慰安婦徴集で自分の手を汚す必要はなく、業者に一定の期日までに一定の数を集めよという指示をすれば事足りたわけである。
(慰安婦の数ははっきりしないが、数万人とか10万人以上とか言われている。)

業者は大量の慰安婦を確保するため国外(朝鮮、台湾など)では、ときには暴力的、威圧的な方法をとったり、ときには甘言などを用いたりしたようであり、甘言や虚偽を告げて女子を連れて行った場合でも、その女子が自由に家へ帰れない拘束状態に置かれるのであるから、それも実質的な強制連行である。
徴集の対象女性に真実を正確に伝えて任意の判断をさせるというのでは、おそらく慰安婦はわずかしか集まらなかっただろう。
なお、日本国内においては国際条約の関係(売春目的での人身売買における年齢制限と強制的売買の禁止)があったので、条約に抵触する徴集をすることを禁じていたが、日本政府は『朝鮮、台湾、関東租借地を条約の対象から除外する』と宣言していたので、朝鮮などではその制約がなかったのである。
(なお、外国ではドイツに軍管理の慰安所があったとのことである)

日本軍が直接女性を強制連行した事例は、元慰安婦の証言やある師団長の中国法廷での証言や朝鮮の済州島における軍による強制連行の証言などがあるが、同時にその信憑性に対する反論もある。
一方、インドネシアで日本軍が直接オランダ人女性数十名を強制連行して慰安婦にした事例は明白になっているようである。

業者が慰安婦を強制的に集めたかどうかさえ明確な証拠はほとんど残っていないのが現状であり、ましてそれに対する軍の関与や軍の直接行動について資料・証拠が乏しいのは当然のことであると思われる。インドネシアの例は希少価値といえるものである。
ただ、フェアな方法で慰安婦を集めていては元々の売春婦以外はほとんど見込めないので、業者が貧乏に付け込んでだまし・甘言を用いたり、本人や親を威圧したり、軍が村の責任者に必要数を強制したり、時には誘拐など様々な方法で女性を集めようとしたであろうということは容易に想像できることである。

そのような行為のうち誘拐などの暴力を伴ったものに対して、警察が取り締まるという現象はあり得たことだと思う。国内でも、和歌山県で警察が慰安婦徴集業者を誘拐の容疑で逮捕し、あとで軍の指示とわかって釈放するという事例もあったとのことであり、日本軍の慰安婦徴集方針は国内の地方行政組織でもすぐには信じられなかったようである。
警察を統括する内務省が、国家の名誉や国際問題という観点から、軍部の慰安所開設・運営と慰安婦徴集という方策を不快に思っていたような形跡もみられるようである。

日本軍の側は目標数を達成する必要があるので、業者によるそれらの強制行為を少なくとも規制するようなことはせず、たぶん容認・黙認していたことと思う。警察を刺激するような露骨なことはできるだけ避けて慎重にやってくれることを願っていたことだろう。
目標数に足りないので、軍が直接行動に出たことがあったかもしれない。

もうひとつは、慰安婦に対する強制ということは、徴集の段階だけでなく、慰安所に慰安婦を閉じ込めておく身柄の拘束と、毎日多くの将兵の相手をさせられる強制労働ということがあり、徴集の段階を含めて全ての面において強制性があったということである。
すなわち、日本軍は慰安婦の徴集の場面ではあまり表面には出ずに主として業者による強制徴集を容認・黙認し、慰安所生活、慰安婦業務の面では強制性を持った慰安所・慰安婦管理に直接関与していたと考えられるのである。

意見広告の人たちや安倍首相は、以上のことに対してそれでもなお『慰安婦は業者の責任で集めており、国家は関与していないし、むしろ違法行為がないように監視していた。慰安所は業者の自由営業であり、軍は将兵の性病予防のため衛生面などで関与していたに過ぎない』と強弁するかもしれない。
それに対しては、暴力や脅迫による慰安婦徴集への軍関与の物証には乏しいが、慰安所・慰安婦制度の計画・実行、慰安婦徴集そのもの、慰安所運営、慰安婦生活への軍の積極的な関与を示す物証は比較的多く存在している。

安倍首相は「アメリカ議会での議決があっても謝罪することはない」と以前には述べていたが、渡米した際には反省の意を表していたそうである。実際にこの決議がなされたときには、どのような態度を見せるのだろう。
参議院選挙前でもあり表面的にどんなことを述べるかは大した問題ではないだろうが、超タカ派の安倍さんの心情がどのように出るか見てみたいものである。  

 もうひとつ気になるのは、このアメリカ議会での議決に対して「よその国のことをとやかく言うな」などと反発する人も結構いるのではないかということである。
確かに「アメリカはよそのことを言える国か」という思いはあるだろうが、ここはやはり「なぜそんな非難があるのか」「国内でも安倍首相が超タカ派といわれるのはなぜか」ということを冷静に考えてみるときではないかと思う。
    
追記
 この記事を書き終わってから、今日の中日新聞夕刊を見たら、米下院の委員会で決議があったことと、別のページに最後の生き証人になる決意をしたという朝鮮の90才の女性の証言記事が出ていた。
結婚していたが21歳のとき『日本軍の命令だ』として村幹部に捕まり、慰安所では夜中でも監視がついた---というようなことが書かれていた。
私は日本の新聞の熱意と、警鐘をならそうという姿勢に対して今夜は安心した。
                                                   おわり

# by oranu-tann | 2007-06-27 21:45 | 従軍慰安婦

朝鮮進出の歴史(1)

日本の朝鮮進出の歴史        
                     19.2.26
 なぜ、朝鮮や中国の人たちは、日本の政治家が靖国参拝をすることを怒るのか?いったい戦前・戦中に朝鮮半島や中国大陸で何があったのか?戦前に日本政府は朝鮮や中国にどんなことをしたのか? 

 韓国や中国の政府が内政上の事情などから国民の反日感情を煽ったり先導したりするという政治的な側面もあるかもしれないが、仮にそうであったとしても、戦後60年を経てもまだ戦前の日本の行為が問題視され続けるというのは、そこに深い傷があるからではないだろうか。

 朝鮮や中国への進出の歴史のことは、もう済んだことで現在とは関係が無い古い話なのか、仮に反省するべきことがあるにしても当時はどこの国でもやっていたことであるので日本だけが謝ることはおかしいことなのか?

 日本の朝鮮・中国進出の歴史を見る場合、植民地支配や侵略戦争一般の問題(どこの国にもあった問題)と日本の場合の特殊性との両面を見る必要があると思う。
また、仮にどこの国でもやっていたことであっても、植民地・戦争一般論のベールでおおって、自国が現実に行なったことを容認するべきではないと思う。

中国への進出は他国の侵略が国際的に非難されないシーザーやナポレオンの時代ではなく、まさに現代において行なったことであり、そのために、柳条湖事件と満州国樹立が国際連盟における非難決議(42対1)となったわけである。現在の北朝鮮と同様に日本の行動は圧倒的な数で国際的な非難をあびていたのである。
一方朝鮮の植民地化は当時先進国が一様に植民地を保有していた時代であったため、お互い様ということで国際的に非難される問題にはならなかったが、朝鮮を軍事力を背景にして有無を言わせず併合した事実および他の国の植民地と異なり名前や言葉や天皇崇拝や神社参拝まで強制された事実があるため、朝鮮国民の激しい怒りを引き起こし、その怒りを長く継続させたのである。

当時の日本(軍)に特有の問題としては、天皇を現人神とし国民をその臣民として天皇に命を捧げることを美徳とする政治と教育があったこと、日本民族は優秀であるとして朝鮮人・中国人などのアジア人を蔑視していたこと、自国軍・他国軍を問わない捕虜否定の姿勢があったこと、武器を捨てて集まっていた中国敗残兵や便衣兵の疑いありと判断された市民の大量殺害、日本刀の試し切りや細菌の人体実験や捕虜の酷使・大量死などの残酷な行為、慰安所の設置と慰安婦収集、朝鮮人・中国人の日本引致と過酷な労働の強制、沖縄における住民蔑視と住民の生命軽視、精神主義の下での無謀な作戦による将兵の大量餓死・病死、報道統制と言論弾圧による戦争の実相の隠蔽、軍備と国土がほぼ壊滅していても戦争を継続させた軍部の姿勢---などなどであると思う。

人命の軽視、人権の軽視、根拠のない民族的優越感、非現実的な野望、軍の玉砕精神とその強要などが他国に比較して相当顕著に現れていたと思われる。
これらの日本(軍)の特殊性を無視して、『それが戦争というものである』とか『どこの国でも似たようなことをやっていた』と一般化してしまうのはあまりにも乱暴であり、結果として過去の日本(軍)が行なったことを容認することになると思われる。

 ただ、国家の手による残酷な行為などは日本だけのものというわけではない。
ヒトラーのユダヤ人大量虐殺やアメリカの日本の都市の無差別爆撃・二度の原爆投下やイギリスのドレスデンなどの無差別爆撃やソ連軍による満州開拓民などの殺害・略奪・婦女暴行、シベリアでの日本軍捕虜の酷使・大量死など他国でも見られたことであるが、それらの事実を挙げて「どこの国でもやっていた」として自国の行為を免罪するのではなく、よその国にあったかなかったかに関わりなく、自国の行為を厳しく見つめるべきであると思う。
同様に、自民族の優越視はナチスドイツにもあり、沖縄戦争の際にアメリカ兵による婦女暴行があり、南方諸地域で日本兵捕虜が冷たい仕打ちを受けたり、戦前のドイツに慰安所が存在したり、というような事例は掘り起こせばまだあるかもしれないが、それを自国の行為を擁護したり正当化する材料にするべきではないと思う。

 植民地や戦争の問題は、加害者・支配者がどこの国であっても、あくまで国家権力者と国民・民衆との間の問題として捉えるべきであり、特に日本が行なった行為については自分の国が起こした問題として認識するべきであると思う。
また秀吉の朝鮮征伐のことなどを問題にしているわけではなく、現代に生じたことを問題にしているのである。

 ドイツが、戦後すみやかに自国の戦前の行為を根本的に否定し、具体的に何をしたのかを教育の場で明確に教えてきたと言われているのとは対照的に、戦後の日本政府は戦前の行為を外交上の発言はともかく本心からは反省せず、国民にも真相を積極的に知らせないまま来ているのである。
逆に憲法9条の解釈を順次変えながら軍隊を作り上げ、現在の為政者が有事立法などを着々と進め、専守防衛では満足せずさらに海外での軍事行動と集団防衛を制約する憲法9条の変更を宣言しているのが政治の現状である。
そのような戦後の流れと現状においては、戦前の問題は済んだこととせず現在的な問題として捉えるべきだと思うのである。
為政者に戦前の軍事行動に対する明確な反省がないということは、軍事行動とか戦争というものが許される範囲として戦前のような行動のケースを除外していない恐れがあるということでもある。

 日本の場合、戦前の為政者と戦後の為政者が人的にも思想的にも連続しており、ほぼ同じレールの上に乗っているような感がある。安倍首相が『祖父の岸信介が成し得ず父も成し得なかったことを私が実現したい』と憲法9条改正の意欲を示しているが、岸氏は戦前の東条内閣の閣僚だった人物であり、この安倍氏の言葉は、戦前から戦後そして現在への連続性を象徴しているようである。。

 日本(軍)のアジア進出について、「日本の戦後政治と中国大陸進出の歴史」にも記述したが、ここでは明治以降の日本の朝鮮進出の歴史について、いろいろな資料からその経過を書いてみた。
 
  
[幕末から明治維新のころの征韓論]

1876年の江華島事件をきっかけにして日本は朝鮮半島に進出し、1910年に朝鮮を併合するに至るわけであるが、その日本の動きの原動力となった思想というか観念のようなものが江戸時代の末に作られたようである。

 幕末にペリー来航による開国の外圧が高まった頃、吉田松陰などの尊王攘夷論者が、徳川幕府によるアメリカなどとの和親条約に反発するとともに、西洋兵法を採用して訓練し、アメリカなどに屈することの代償として攻めやすい朝鮮などを征服するべきという征韓論を主張した。
その姿勢の根底には、本居宣長、平田篤胤、山鹿素行などに代表される国学思想があった。日本は神が世界の中で最初に造った国であり神の子孫である天皇が万世一系治めてきた世界に例のない神国であるとともに、朝鮮は既に古代において日本が征服し日本の属国にしたものであるという思想である。日本書紀に神功(じんぐう)皇后が朝鮮半島に自ら赴き新羅・百済・高句麗の三韓を征伐し属国にしたという記述があるのを根拠にしたものである。そのため、幕府が朝鮮と対等の外交をしていることを国の恥辱であり国威の失墜であると非難している。

 明治となり、維新政府の参議で実質的な政府責任者であった木戸孝允は、明治元年に、属国であるはずの朝鮮が武家政権時代以来天皇への朝貢を怠って無礼な態度をとっているとし、王政が復古した今、朝鮮が日本に従わない時は武力により神州の威力を示すべきであるとして征韓論を主張している。
このような姿勢を背景にしながら朝鮮に使節を派遣するが、国の上下関係を示す文字の使用を理由に朝鮮に文書の受け取りを拒絶される。ただ政府内に、国力充実まで朝鮮と断交するべきとか中国との交渉を優先するべきとか様々な意見があったため即武力実行とはならず暫く征韓論は底流として存在することとなる。

 明治6年(1873年)に、政府の中で朝鮮政策について意見対立が明確になった。西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎などが、王政復古の本来の理念にもとづき、開戦を覚悟の上で朝鮮に日本に従うことを説く使節を派遣することを主張し、一方、大久保利通、大隈重信、岩倉具視などが即時の征韓実行は内政の混乱やロシアの脅威が懸念されるので富国強兵を優先し暫くは力を蓄えるべきであると主張した。
争いに敗れた使節派遣(征韓)即時実行論側は一斉に辞職し、大久保を中心とした内治優先論の側が政権を把握し朝鮮に対する行動は延期される。一方、この政変のすぐ後に朝鮮でも政変が起こり、後述するように閔氏政権が成立して鎖国姿勢が変化したため、日本の朝鮮進出が短期間のうちに現実化することとなる。
  
[朝鮮李氏王朝の構図-1870年代~1880年代ごろ]

 明治のはじめごろ、朝鮮の国内がどのような状態にあったのかを概観する。

 その頃の朝鮮は李氏王朝の時代で、高宗が国王であった。朝鮮は中国を宗主国とする立場にあったが自治は認められていた。高宗の少年時代は、父の大院君が摂政として政治の実権を握り、旧制度の諸改革(開化)とともに強力な鎖国政策をとった。1873年、高宗が20歳になった時、高宗は王妃の明成皇后(閔妃)の出身である閔氏一族を後ろだてとして親政(自ら政治を行う)宣言を行い政治の実権を大院君から奪った。ただし、実際の権力は閔氏一族が掌握していた。高宗と閔妃は旧制度を復活させ(守旧)、一方でひきつづき鎖国政策をとったが、以下のように日本の進出を契機として開国政策に転じた。           
                       
       (権力の関係図)
        
                (大院君と閔妃の画像)



 1.日清戦争までの経緯  

①1874年日本政府は朝鮮の政変による変化に期待して朝鮮に使節を送り、釜山で天皇を朝鮮の王よりも上位と位置づける文書の授受についての交渉をした。朝鮮側が対等の立場を主張し難航したため、かつてペリーが日本に対してやったように軍艦を釜山港に入らせ威嚇したが進展せず使節は日本へ引き上げた。

②1876年、日本は朝鮮の首都ソウル近海に軍艦を進入させ、首都を守備する江華島の砲台から砲撃を受けて撃ち合いとなり、砲台を破壊した。その際の不意の砲撃に対する賠償を求める形で翌年6隻の艦隊を差し向けて武力で威圧しながら日朝修好条規(江華島条約)を締結した。主な内容は、朝鮮を独立国と認める(=中国の宗主権を認めない)、釜山等3港の開港、開港地での日本人の居住・貿易権(無税・日本貨幣使用可)、首都への公使館設置、日本人の領事裁判権などであり、朝鮮進出の第一歩となった。(清国は情勢不利とみて沈黙していた。)

 これは、単に朝鮮を交易の相手国とするということではなく、以後の動きが示すように、朝鮮を清国の手から奪い、ロシアの影響を排除して、日本の支配下におこうとする意志に基づくものであった。ただ、どのようにそれを進め、どのような形態で朝鮮を支配するのかという点は必ずしも政府内の意見がまとまってはいなかったようである。
                  (日本艦隊の画像)
③1882年、壬午(じんご)の軍乱が起きる。1881年に閔氏政権が日本から招いた軍事顧問が従来の軍隊とは別に日本式の軍隊を組織し、両軍に服装や給料などの待遇差ができたため、旧軍人の不満が高まり暴動を起こした。
 旧軍人は朝鮮の重臣や日本人将校の殺害、日本公使館襲撃などを行ったが、清国軍により鎮圧された。その結果、日清間の力関係が変化し、清国の宗主権が相対的に強まった。
この事件以後日本は清国との戦争を想定して軍備拡張を進めた。

  ④1884年、日本公使の支援を受けた独立党(開化派)が、清国に依存する事大党政権(閔氏政権、守旧派)の打倒をはかり暴動を起こし王宮を占領、日清両軍が出動した(甲申事変)。このクーデターは失敗し、1885年天津条約により、清国と日本は朝鮮からの撤兵と朝鮮出兵時の相手国への通知を取り決め、両軍はひとたび撤退した。
# by oranu-tann | 2007-06-22 21:22 | 朝鮮進出の歴史

朝鮮進出の歴史(2)



 2. 日清戦争

①1894年、東学党の乱(甲午農民戦争)が勃発した。東学党は朝鮮に入ってきたキリスト教(西学)に対抗して作られた組織で、当初は教主の処刑に対する抗議運動をおこなっていたが、1893年に入ると日本と西洋の排斥をスローガンに掲げて2万人余が結集した。さらに、1894年には重税、官吏の汚職、外国勢の進出などに怒りをつのらせた農民の反乱と結合して20万人の大軍となり、各所で政府軍を圧倒した。
      
             [東学党の乱の画像]
 対応に窮した朝鮮政府は、同年6月清国に支援を要請し 清国がソウル郊外に出兵し、そのことを知った日本は公使館と居留民の保護を名目にソウルに軍隊を派遣した。しかし、その時既に政府と東学党との和睦が成立し反乱軍は撤退していたため日清両軍とも出兵の名目がなくなり、朝鮮政府は両国に撤退を要請した。

②それに対して日本側は、清国に両国共同による朝鮮の内政改革を提案しそれが行われるまでは撤兵しないと主張、清国が拒否すると単独での改革を宣言した。
(清国の拒否は日本が想定していたものである)

③7月、日本軍は王宮を攻撃して、閔氏政権を打倒し大院君を執政とする親日派政府をつくるクーデターを行った。 (※1)
その親日派政府から清国兵撤退の要求と日本軍への清国軍駆逐要請を出させた。
日本軍は「朝鮮政府の要請に答え朝鮮の独立を確保する」という大義名分をかかげて清国軍を攻撃し日清戦争となり、日本側の勝利により終結した。 (※2)

               (当時の各国勢力図)

 日清戦争中、豊島沖海戦の際、英国旗をかかげ清国兵を輸送中の高陞号を日本の軍艦が停船させ、英国乗員を下船させた後清国兵1200名をのせたまま撃沈したため、国際的な問題となった。 
     
             (豊島沖海戦―高陞号撃沈の画像)
 (※1)
 この王宮攻撃は、当初は王宮からの日本軍への発砲に対する応戦という偶発的なことから始まったとされていたが、ちょうど100年後の1994年に福島県立図書館で日本軍参謀本部作成の資料が発見され真実が明らかになったとのことである。
その資料は「朝鮮王宮に対する威嚇的運動」と題するもので、1900年に作成された具体的な王宮占領計画であった。
軍隊による王宮包囲など事実経過とほぼ一致するものであったが、計画では大院君から王宮入城の支援を要請させて、それにより大院君を護衛して入城することなっていた。
しかし、大院君にそれを承諾させることに手間取り時間的な狂いが生じて日本軍の単独攻撃となり大院君は遅れて入城したとのことである。そのために「王宮内から銃撃を受けたので」というストーリーにしたようである。

 (※2)
 日清戦争の日本軍動員数は17万人、そのうち死者は約13000人で、内訳は戦死1100人,病死12000人である。
病死が90%で内容はコレラ6000人、赤痢1700人、チフス1300人など伝染病によるものである(死者8000人という数字の資料もある)。清国側死者はこれを大きく上回ると思われる。

また、取得した台湾の占領(台湾討伐)には日本軍約76000人が投入されたが、戦死200人、病死4600人で、台湾住民の激しい抵抗のため1915年の完全平定まで20年を要したとのことである。一方、台湾人の死者は17000人以上とのことである。台湾と澎湖島は日本が始めて獲得した植民地であった(なお朝鮮併合は1910年)。
     
④下関条約と三国干渉:1895年に下関で日清講和条約が調印された。その主な内容は、清国の朝鮮への宗主権放棄、遼東半島・台湾・澎湖列島の日本への割譲、償金2億テールの支払いなどであった。
それに対してロシア、フランス、ドイツの三国から「日本の遼東半島領有が朝鮮の独立を有名無実にし、極東の平和に障害を与える」として清国への返還を要求した。ロシアは不凍港確保の必要などから満州への進出野望を抱いていたので、その障害になると考え同盟国フランスを引き入れ、ドイツは露仏の関心が極東に向くことが有利と考え、その結果三国による干渉となったようである。日本政府はそれを拒否する国力がなく、また
米英が中立の立場をとったため、、やむなく三国の要求を受託し遼東半島を清国に返還した。
             
        [三国干渉の対象となった遼東半島の画像]         

 政府が三国の要求を受託したことが国内の政党や世論の大きな反発を呼び、政府は臥薪嘗胆をスローガンとして世論をロシアに対する敵愾心、復讐心の方に振り向けた。
軍国主義的な論調が新聞・雑誌に多くなり、政府はその風潮を背景に清国からの賠償金などによりロシア戦を想定して軍備拡張を進めていくこととなる。

 3.日清戦争後

①閔妃(一族)は三国干渉に日本が従ったのを見て急速にロシアと接近し(清国からロシアへの乗り換え)1895年7月ロシア公使とロシア軍の力を借りてクーデターを起こした。親日派を一掃し、大院君を幽閉した。日本人に訓練された軍隊も解散させた。

②それに対して同年10月、閔妃殺害事件が起こった。これは、日本公使三浦梧楼が、幽閉されていた大院君をかつぎだしてもう一度政権につけようと図ったもので、日本軍守備隊や日本人壮士らの力により宮廷を襲撃し閔妃を殺し死体を焼却した。そして大院君をすえて親日派政権をつくったが、この工作は裏目に出て逆に朝鮮に反日感情が高まった。  

           ( 閔妃殺害現場の画像)                                            
 国内は日清戦争の戦勝に沸きかえり、提灯行列でばんざいばんざいと浮かれて、演歌も戦争一色なった。

③1896年2月、ロシア軍水兵の応援を受けて反日派(保守派)のクーデターが起こり大院君政権はつぶれた。
国王の高宗は日本の逆襲を恐れてロシア公使館に1年以上避難していたが、1897年王宮に戻り皇帝と名前を変えるとともに国号を朝鮮から大韓帝国に変えた。

 4.日露戦争まで  
   
 ① 列強による中国分割
 日清戦争に清国が敗北したことを機に、列強各国による中国分割競争が始まった。
 ・フランス:広州湾の租借権、ベトナムに接する地域の鉄道利権
 ・ドイツ :膠州湾の租借権、山東省内の鉄道敷設権、天津・漢口での利権
 ・ロシア :東清鉄道敷設権、旅順・大連の租借権
 ・イギリス:九龍半島・威海衛の租借権

 ②1899年、キリスト教の広がりと列強による中国分割に対して、義和団の乱が発生した。義  和団は宗教団体で、当初はキリスト教会の攻撃などが主であったが、やがて扶清滅洋(清  国を支援し西洋勢力を撲滅する)をかかげて西洋商店の打ちこわしなどを行い列強に対して  戦う姿勢を鮮明にした。清国は当初は義和団を取り締まる姿勢をみせていたが、時の権力者 西太后は20万人に膨張した義和団を利用し列強を追い出そうと考え義和団を支援する姿勢 に転じ、列強に対して宣戦布告をするに至った(1900年)。                       
             (義和団旗と義和団兵士の画像)
            
 義和団は北京に進出し大公使館を襲撃したため、日本を含む列強8カ国が共同出兵(総数9万人、内日本軍2万人)をし義和団を鎮圧し清国は降伏した。(途上西太后は北京を脱出し、清国軍に対して列強軍に協力して義和団を討つよう指令している。)
      (紫禁城に集結した各国軍隊の画像)
 ③ この義和団の乱を鎮圧後、列強各国は公使館の保護などを理由として、そのまま兵を駐 留させる権利(駐兵権)を獲得した。
( 後に1937年の盧溝橋事件の当事者となる日本の支那駐屯軍はここからスタートしたので  あるが、中国問題のことは別の機会に記述することとし、ここでは朝鮮問題に限定する) 
  
 5.日露戦争

 ① ロシアの動きと日露開戦 
                       
       [列強による中国分割(日露戦争前)の画像]   ロシアは、義和団事件に乗じて満州を占領するとともに、関東州租借権条約を清国と締結  し、さらに朝鮮に進出する動きを示した。それに対して日本は、満州、朝鮮に関する日露の利 害調整を図るためロシアと交渉を行ったが交渉は難航した。
 日本軍内部では早期開戦論が盛んになっていたが、1904年2月の御前会議で交渉打ち切  り・開戦を決議し、その翌日交渉が決裂、その3日後日本軍の奇襲攻撃により日露戦争が開 始した。(なお、1902年にロシアに対する日本とイギリスのそれぞれの思惑から日英同盟を 結んでいる。)    

 ② ポーツマス条約
  各地の戦闘は日本軍が優勢であったが、日本は国力の限界に達していたところにアメリカ  から講和勧告が出され、ポーツマスで講和条約が結ばれた。
 その主な内容は次のようであった。
   ・日本の朝鮮における優越権をロシアが承認
   ・樺太の南半分(北緯50度以南)を日本が獲得
   ・南満州鉄道・関東州の租借権を日本が獲得

  ただ、ロシアが賠償に応じない強硬な姿勢を続けた結果賠償金がなかったため国民の不満 が高まり、日比谷の焼き討ち事件などが生じた。国民向けに発表していた戦況・戦果(一方的 勝利)と現実とに大きな差があったということの結果だといわれている。
             
  ・日露戦争の日本軍死傷者数(総兵力109万人)   ・脚気患者数25万人(内病死3万人)    死者9万人、負傷者29万人

  (余談)                   
    脚気の原因は、胚芽を除去した白米の摂取によるビタミンB1の不足によるもので、麦を    適度にまぜるよう医学者から勧告があり海軍はそれに従ったためわずかな死者で収まっ    たが、陸軍は軍医の森林太郎(鴎外)などがそれを拒み白米摂取を続けたため死者が増    大したとのことである。
                                          
         [203高地攻撃用の砲を運ぶ日本軍の画像]
         [塹壕内の日本兵の死体と眺めるロシア兵の画像
         [日露戦争後の各国勢力範囲の画像]

# by oranu-tann | 2007-06-22 21:19 | 朝鮮進出の歴史

朝鮮進出の歴史(3)

         
 6.朝鮮併合

① 1904年、韓日議定書により日本が日露戦争のために軍事上必要とする朝鮮国内地点の使用権を得た。また、同年第一次日韓協約を締結し財政・外交部署に顧問を置くという形でその分野の実権を把握した。
   
  ② 1905年、ポーツマス条約の直後、第二次日韓協約(韓国保護条約)を締結し、日本が韓国の外交権を掌握するとともに首都ソウルに韓国統監府を設置し、韓国を保護国化した。初代統監に伊藤博文が就任した。※

  ③ 1907年、第三次日韓協約が結ばれ、韓国軍隊の解散が決められた。当時日本の一連の行動に抗議する義兵運動が起こっていた。解散させられた軍人が義兵運動に加わり、各地で抗日集団が作られた。1909年、伊藤統監がハルビンの駅で独立運動家の安重根に射殺された。

①1910年、日韓併合条約が締結され、大韓帝国は消滅した。

  朝鮮を併合するべきかどうかについて、財政的な負担増などから反対する意見ガあったが、「欧州にならぶ強国になるには新たな領土が必要である」という意見が大勢を占め、それは国民世論とも一致していた。

第1条で「韓国の皇帝は、統治権を完全かつ永久に日本の天皇に譲渡する」となっている。朝鮮での公表は一週間ずらし、その間に朝鮮と日本との対等合併を主張していた親日的な一進会をはじめ諸団体の解散、全ての新聞の廃刊、砲台の整備などを実施し反対運動に備えた。朝鮮総督府が設置され1945年まで朝鮮を統治した。

[朝鮮総督府庁舎の画像]      

※[第二次日韓協約のいきさつ]
 当時朝鮮公使をしていた林権助が戦後の回想録で述べたところによれば、以下のようであった。
少し長くなるが、日本の朝鮮支配の実態が出ているので引用する。

 外交権を日本に移管する協約締結にあたり枢密院議長の伊藤博文が大使となり韓国に赴き、まず高宗に協約案の承認をせまった。
高宗は国の存立が失われるとして抵抗した。高宗は、欧州列強がアフリカ諸国を支配している例をあげて、それと同じになってしまうのではないのかなどと述べた。
伊藤大使は、日清・日露の戦争に勝利した強国日本の保護なくしては弱国韓国は今後も成り立たないこと、内政は従来どおり韓国自身が行なうものであり日本は韓国を征服する意思は持っていないこと、これは日本の強い意思であり不同意の場合は一層困難な事態となることを強調し、高宗は了承した。

その後高宗と閣僚との会議(御前会議)が開かれ、高宗は協約に止む無く同意したい旨を述べたが、大臣の多くは拒否することを主張して終わった。
 それに対して、伊藤大使は御前会議の再開と日本側の出席を要求したが、高宗の病気を理由に御前会議ではなく閣議が開かれることになった。宮廷周辺と目抜き通りには演習ということで日本兵が多数配置された。

その宮廷での閣議の場に伊藤大使は韓国駐屯軍司令官と林公使を伴って出席し、各大臣に対してひとりずつ協約案の賛否を問いただした。首相はじめ2人が強く反対、1人の大臣はイエスかノーかを繰り返し問われたが黙り込み、1人の大臣が積極的に賛成、3人の大臣が不満を表しながら煮え切らない答弁をしたため賛成と扱われ、伊藤大使は賛成多数として協約が成立したと述べた。途上、首相は泣きながら部屋を出て行った。

 積極的に賛成した大臣(後に伊藤大使の推薦で首相になる)の意見は、日本は強国であり拒否する力は韓国にはないので、こじれて事態が一層悪化する前に調印するべきであるというものである。

 この協約は、日本は内政には立ち入らず、かつ韓国に国力が着くまでのものという限定つきであったが、この後短期間のうちに全てが反故にされることとなる。
この協約に対して官人・軍人数名が抗議の自決をしたとのことである。

 これに対して、高宗は1907年にオランダのハーグで開催されていた世界平和会議に密使を送り、「協約は日本に強制されたものであり無効である」と訴えたが、日本が既にアメリカ、イギリスと互いの植民地を認め合う取り決めをしていたので訴えは無視された。密使は抗議のため割腹自殺をした(ハーグ密使事件)。
統監になっていた伊藤博文はこのことに怒り、高宗に退位をせまり、高宗は退位し、薬害のため廃人同様になっていた純宗が即位した。

7.朝鮮統治

 ①土地調査事業:1910年から約10年かけて土地調査事業が実施され、朝鮮全土の土地所有権を確定させた。所有権の申告がない土地、申告を不承認とした土地、所有権不明地などが元来の国有地とあわせて接収され、東洋拓殖㈱などに払い下げられた。東洋拓殖㈱は朝鮮で最大の地主になった。
その結果、字が書けず手続きの理解もできずに申告しなかったため土地を失った零細自作農民が相当あり、また小作農民も年貢の上昇を伴ったため苦しくなり、この両者のうちやむをえず離村し都市周辺に移り住んだり満州や日本に流出する者も多かった(零細自作農と小作農が全農家の70%以上を占めていた)。
       
②同化政策:学校では日本語や日本史の教育を行うとともに「皇国臣民の誓い」を生徒に唱えさ 
せた。公的な文書はすべて日本語を使用し、新設した朝鮮神社への参拝が義務付けられた。
また、1940年には創氏改名が実施され、従来の朝鮮にはなかった氏を創ることが強制された。ただし名の変更は任意とされたが、内地人(日本人)と紛らわしい名は許可されなくなった。また、選挙権は認められなかった。

            [朝鮮神宮の画像]         
(朝鮮の姓名制度)
朝鮮では本貫と姓および名により人名としていた。本貫とは一族の発祥地の地名で(慶州、全州、金海など)姓は金、李、高などで、両方をあわせて金海金とか慶州李とか呼称し同族であることを表していた。また、朝鮮では女性は結婚しても姓を変えない制度であったが、氏を同一にすることとされた。
     創氏改名の目的は、古くからの宗族意識の解体と徴兵を容易にするためであったといわれている。

③1919年、日本軍に軟禁されていた高宗が急死したため日本に毒殺されたといううわさがたち、それをきっかけに日本の統治に反対する3.1独立運動が行われ、各地に広がり数ヶ月続いたが日本軍に鎮圧された。参加者は200万人(総督府発表100万人)、死者は7500人(同600人)とされている。
 [ソウル南大門付近の風景の画像―統治前と統治後]

日本の朝鮮統治により、道路、鉄道などのインフラ整備や工業化と教育を含めた近代化がかなり進んだのは事実であるが、決して福祉・慈善事業として朝鮮人のために実施したのではなく、日本の中国大陸への進出拠点としての戦略上の重要性から朝鮮半島を確保しインフラ整備をしたのであり、あわせて朝鮮国民の憤懣をやわらげ朝鮮支配の安定を図るとともに忠実な皇民を育成するために実施したものである。
また当然ではあるが、日本の産業界も安価な労働力による利益確保を目的として進出し工業化を行ったのである。

かくして、朝鮮人にとって国の主権だけでなく思想の自由や名前の自由や文字使用の自由などを奪われ、誇りを踏みにじられた朝鮮支配は約40年間続き、昭和20年に幕を閉じた。
しかし、その後も与党有力政治家が朝鮮支配に対して「朝鮮併合は合法的に行われた」「創氏改名は朝鮮人の希望でもあった」「日本は朝鮮の近代化に貢献した」「西欧諸国の植民地よりも善政を行った」などの発言が続き、植民地として他国とその国民を支配し底知れない屈辱を与え続けたことへの心からの反省もなく今日に至っている。
そして、そのような政治家が首相となり、戦前の日本の行動を正当化し賛美する靖国神社への参拝を続けているため、朝鮮の人たちの怒りがいつまでたっても収まらないのだと思う。            
(おわり)
# by oranu-tann | 2007-06-22 21:16 | 朝鮮進出の歴史